DNAとしてのiPhone

iPhone 3GSでもっとも印象的だったのは、外見がまったくと言っていいほど変わらなかったこと。僅かに背面下部の文字がシルバーに変更されたものの、見比べなければ、気がつかない程度の差異しかない。初代iPhoneは裏面は異なるけど、表面はほぼ一緒。それに、背面に記される製品名は常にiPhoneで、3Gも3GSも関係ない。

three-models-of-iphone

以前からiPhoneを「透明なデバイス」として考えていたのは、正面にはスクリーンしかない黒いプレートのような外観のことで(正確には、目立たないようにスピーカーとホーム・ボタンがある)、デバイスとしての主張が極端に少ないことだったんだけど、その意をますます強くしちゃいました。

そんなわけで、昨日配信されたIAMASの学内メール・マガジンに寄稿した駄文の冒頭部分を引用しておきます。

重要だと思われているトレンドの逆を行くことで、iPhoneは成功しているんだよね。携帯電話網は接続保障でしかなく、インターネットもオープンソースも必要悪なんだ。デバイスは汎用品のオンパレードだから、いつでも置き換え可能。なのに、機能競争にもデザイン合戦にも参加しない。ましてや多品種少量生産なんて、どこ吹く風。

つまり、こうだ。iPhoneはテクノロジーの幼年期を脱し、ある種の成熟を目指している。OSを含めてデバイスは乗り物に過ぎず、乗り継ぐべきDNAにこそ全霊を注ぐ。それをブランディングと呼んでもいいけど、身を削ぐような極端なミニマリズムだからね。頑固一徹オヤジじゃなきゃできない。ガキの使いやないで〜っと。

ちなみに、これはiPhoneに始まったことじゃなくて、Macでも同じですね。プロセッサが変わるといった大チェンジでも、筐体は変わらないってのがお約束。

DNAとしてのiPhone” に1件のフィードバックがあります

  1. ピンバック: 村上春樹という洗脳小説家についてだと! iPhone / iPod touch な夕刊

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