1979年のポップ・ソングにも1982年の映画にも関係ないんだけど、昨今話題のゲンパツはカフェ化するといいと思う。最初に断っておくと、私は原子力にもエネルギー問題にも政治にも素人だし、きちんと勉強しているワケでもない。だけどチョコっとはインフォメーション・テクノロジーやメディア・アートに関わる人間として幻視することは、現状の原子力のようなモンスター・テクノロジーは遠からず終焉を迎えるだろうってこと。逆に原子力が生き残るとすれば、カフェのような存在になるべきね、と思う。
まず、素人には、原子力は人が制することができない凶暴な力なのか、あるいは、制御できるとして、そのトータル・コストが他の発電手段より高価なのか、それは分からない。さまざまな見地からの目論みや試算はあるだろうけどね。さらには、そもそも論として電力が必要なのか否か、電気なしの生活や社会が有り得るのか、といった疑問には立ち入らない。だって電気便利だから(苦笑)。
さて、原子力は素人には手も足も出せない高度な技術と膨大な資金を必要とする。だよね?だから最高学府の最高叡智を集め、国家と巨大企業が多額の予算を投入してきた。それでしかできないから。それでしかできないってことは、それが独占的地位を占めるってこと。そして、独占は莫大な利益を生み出す。これは止められない止まらない。だから独占は死守しなくっちゃね。かくして、それは何重ものヴェールに包まれ、神格化、秘儀化していく。
ところが、神殿はハリボテで神官は無能だってことが露呈しちゃったのがフクシマ。長年の独占と隠蔽は、必ず怠惰と腐敗を生み出すのは歴史が何度も証言してるよね。しかも、これ暴いたのはジシンとツナミ。決してヒトではないのが此の国の習わし。誰もが無力感を感じてジシュクに熱中している。
それじゃ、どうするんだい?ってことで連想するのはインフォメーション・テクノロジー。原子力と同じ頃に誕生したのがコンピュータ。その頃はコンピュータも神殿だったし、神官が奉ってたんだよ。これがメインフレームと呼ばれる大型コンピュータで、今日でもシワケられたり、ミズホ事件を起こしたりしてる。これも独占と隠蔽と怠惰と腐敗の末路。
ただし、インフォメーション・テクノロジーが幸運だったのは、やがてミニコンが生まれ、パソコンが生まれ、そしてモバイルに至ることができたってこと。つまりテクノロジーの人民解放、遍在化、素人化ね。モバイルやインターネットも根源は国家や大企業が握っていることには変わりないものの、それでも大衆化が駆動力になっているから随分と健全だと思う。原子力の素人化なんて聞いたことがないからね。
と、まぁ、神殿とか人民解放とか随分とステレオタイプなアナロジーだけど、インフォメーション・テクノロジーが成し得たことをパワー・テクノロジーにもして欲しいワケ。それが原子力であっても構わない。人目を避けた禁止区域じゃなくって、街角に小さな発電所を沢山建てる。カフェのようなマイクロ・グリッドね。ピコ・リアクターをポケットに入れるのもいい。
それが危険だとは言わせない。逆だよ。人のすぐ傍でも問題がない安全性を実現する。それがカガクシャやギジュツシャの仕事。なにしろ数十年前にはコンピュータを素人に触らせなかったけど、今じゃ子供だってiPhoneで遊んでるし、ちっとも危険じゃない。それなりのリテラシーは小学校で学べばいい。
つまり、聖域化されるモンスター・テクノロジーは要らない。素人にも開放されたスマート・テクノロジーこそが素敵。同じように考えるとモンスター・メディアたるテレビや新聞も要らない。いつまで「意志の勝利」を続けるの?(レニ最高!)馬鹿や間抜けがいてもソーシャル・メディアのほうが何十倍も機敏で有益でしょ。同じことは他にもいくつも例を挙げることができる。
さらにこれを自分の領域で言うと、モンスター・アートは馬鹿げてると思うから、モバイル・アートに興味津々なのね。高性能で強靭なスピーカ・システムで爆音を鳴らしたり(私?)、ビルのような巨大なスクリーンに映像を打ち出したり(私?)、前世紀的な悪趣味としか言いようがない。人々をひれ伏せさせるような威圧的な表現ではなく、人々に寄り添うような繊細で優美な表現に向かいたいワケ(照笑)。
以上、エプリル・フールのエントリーでした。