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クラウドなボクら

(以下は、2011年3月12日に行なわれた講演「クラウドなボクら」のレポートの転載です。)

3月11日に発生した東日本大震災を、当時海外にいた私はツィッターとアルジャジーラで知った。ツィッターは個人のフォロー(発言の購読)による即時性の高いネットワーク・サービスで、アルジャジーラはアラブ圏の衛星テレビ局でウェブ(ホームページ)での報道にも力を入れている。当然かもしれないが、海外では日本のテレビ放送を見ることはできない。しかし、周囲の人々はすぐに地震を知り、日本を心配する言葉をかけてくれた。彼らも私と同じようにツィッターなどで情報を得ていた。

つまり、全世界的なコミュニケーションが高速化する今日において、テレビや新聞などの古い仕組みは役に立たない。それは企業や社会でも同じこと。一極集中専制型ではなく、多極分散協調型の新しい仕組みが着実に広まっている。これはクラウド(雲)とも呼ばれ、個々が独立していると同時に、お互いに情報を交換し、全体としてまとまった行動をする。ボクたちは雲を形作る水滴であり、数多くの水滴の集まりである雲は、常に形を変え軽やかに流れていく。そして雲はひとつではなく、たくさんある。

大地震の翌日に帰国した私は、上石津に集まった中学生の皆さんにこのような話をしていた。大災害のような危機的状況では、個々人の判断と素早いコミュニケーションが必要とされる。十数年前に神戸に住んでいて大震災に遭った私はそれを痛感した。非常時に誰かからの号令を待っているような悠長さは有り得ないからだ。同じように、急激に変化し多様化する現代では、一人一人が自覚を持って他者と対話しながら行動することこそが世界を進めていく。

このようなクラウドを技術面で支えているのは、モバイル・デバイスとモバイル・ネットワークだ。そこで中学生の皆さんの一人一人にiPhoneを手渡し、全員で連携しながらクラウド的な体験をしてもらった。初めて触る人もいたが、誰もがすぐに使いこなし、面白い使い方を見つけていく。彼らは生まれた時から携帯電話があり、インターネットがあったデジタル・ネイティブ世代だ。大人が訳知り顔でクラウドなどと言う必要はないのかもしれない。彼らはクラウドを超えるさらに新しい行動様式を生み出していくに違いない。

歓声の上がる会場で、彼らが生まれた頃の先の震災の後に私たちが何をしてきたのかを、そして今回の震災後に彼らとともに何をするべきかを考えていた。このような機会を与えていただいた大垣センチュリーロータリークラブの皆さまに感謝します。

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アトミック・カフェ

1979年のポップ・ソングにも1982年の映画にも関係ないんだけど、昨今話題のゲンパツはカフェ化するといいと思う。最初に断っておくと、私は原子力にもエネルギー問題にも政治にも素人だし、きちんと勉強しているワケでもない。だけどチョコっとはインフォメーション・テクノロジーやメディア・アートに関わる人間として幻視することは、現状の原子力のようなモンスター・テクノロジーは遠からず終焉を迎えるだろうってこと。逆に原子力が生き残るとすれば、カフェのような存在になるべきね、と思う。

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まず、素人には、原子力は人が制することができない凶暴な力なのか、あるいは、制御できるとして、そのトータル・コストが他の発電手段より高価なのか、それは分からない。さまざまな見地からの目論みや試算はあるだろうけどね。さらには、そもそも論として電力が必要なのか否か、電気なしの生活や社会が有り得るのか、といった疑問には立ち入らない。だって電気便利だから(苦笑)。

さて、原子力は素人には手も足も出せない高度な技術と膨大な資金を必要とする。だよね?だから最高学府の最高叡智を集め、国家と巨大企業が多額の予算を投入してきた。それでしかできないから。それでしかできないってことは、それが独占的地位を占めるってこと。そして、独占は莫大な利益を生み出す。これは止められない止まらない。だから独占は死守しなくっちゃね。かくして、それは何重ものヴェールに包まれ、神格化、秘儀化していく。

ところが、神殿はハリボテで神官は無能だってことが露呈しちゃったのがフクシマ。長年の独占と隠蔽は、必ず怠惰と腐敗を生み出すのは歴史が何度も証言してるよね。しかも、これ暴いたのはジシンとツナミ。決してヒトではないのが此の国の習わし。誰もが無力感を感じてジシュクに熱中している。

それじゃ、どうするんだい?ってことで連想するのはインフォメーション・テクノロジー。原子力と同じ頃に誕生したのがコンピュータ。その頃はコンピュータも神殿だったし、神官が奉ってたんだよ。これがメインフレームと呼ばれる大型コンピュータで、今日でもシワケられたり、ミズホ事件を起こしたりしてる。これも独占と隠蔽と怠惰と腐敗の末路。

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ただし、インフォメーション・テクノロジーが幸運だったのは、やがてミニコンが生まれ、パソコンが生まれ、そしてモバイルに至ることができたってこと。つまりテクノロジーの人民解放、遍在化、素人化ね。モバイルやインターネットも根源は国家や大企業が握っていることには変わりないものの、それでも大衆化が駆動力になっているから随分と健全だと思う。原子力の素人化なんて聞いたことがないからね。

と、まぁ、神殿とか人民解放とか随分とステレオタイプなアナロジーだけど、インフォメーション・テクノロジーが成し得たことをパワー・テクノロジーにもして欲しいワケ。それが原子力であっても構わない。人目を避けた禁止区域じゃなくって、街角に小さな発電所を沢山建てる。カフェのようなマイクロ・グリッドね。ピコ・リアクターをポケットに入れるのもいい。

それが危険だとは言わせない。逆だよ。人のすぐ傍でも問題がない安全性を実現する。それがカガクシャやギジュツシャの仕事。なにしろ数十年前にはコンピュータを素人に触らせなかったけど、今じゃ子供だってiPhoneで遊んでるし、ちっとも危険じゃない。それなりのリテラシーは小学校で学べばいい。

つまり、聖域化されるモンスター・テクノロジーは要らない。素人にも開放されたスマート・テクノロジーこそが素敵。同じように考えるとモンスター・メディアたるテレビや新聞も要らない。いつまで「意志の勝利」を続けるの?(レニ最高!)馬鹿や間抜けがいてもソーシャル・メディアのほうが何十倍も機敏で有益でしょ。同じことは他にもいくつも例を挙げることができる。

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さらにこれを自分の領域で言うと、モンスター・アートは馬鹿げてると思うから、モバイル・アートに興味津々なのね。高性能で強靭なスピーカ・システムで爆音を鳴らしたり(私?)、ビルのような巨大なスクリーンに映像を打ち出したり(私?)、前世紀的な悪趣味としか言いようがない。人々をひれ伏せさせるような威圧的な表現ではなく、人々に寄り添うような繊細で優美な表現に向かいたいワケ(照笑)。

以上、エプリル・フールのエントリーでした。

Mobility in Art

アートにおける移動性

PDAや携帯電話を表現媒体とする試みは、これまでは限定的にしか行なうことができなかった。しかし、今日ではiPhoneやAndroid Phoneなどのモバイル・デバイスを用いることができる。これらは高度な表現と手軽な開発、そして全世界規模での展開を可能にしている。このことは、我々は伝統的なアートの形態や価値とは異なる様相に直面していることを意味する。人々の活動の場は既にデスクトップからモバイルに移行しているのだから、アートもまた新しいフロンティアを目指さなければならない。しかし、アートは未だに美術館やコンサート・ホールに縛られている。これはアーティストの態度だけでなく、聴衆の感性においても同様だ。それゆえに、このような現代において、私たちはモバイル・テクノロジーを使って何ができるのかと自問しなければならない。

Mobility in Art

It used to be that the possibilities for using PDAs and mobile phones as creative expression media were limited. However, now we can use mobile devices such as iPhones and Android phones. These platforms allow for advanced expression, easy development and world-wide distribution. This means that we are facing a situation that differs from traditional art forms and values. Because people have already moved from the desktop to the mobile in their activities, art must also head towards new frontiers. However, art is still bound to museums and concert halls. This is true both in artists’ attitude and audiences’ minds. It is for this very reason that we must ask ourselves what we can do today with mobile phone technologies.

Snowflakesについての駄文

来年早々(?)に出版されるContemporary Music ReviewのテーマはGenerative Musicだそうで、Artist Statementを求められて、ちょこっと文章を書きました。 それが今週末に行なうSnowflakesネタなので、来年まで待ってられないってことで、原文(日本語)を載せておこうと思います。

Statementになっていないじゃないか?という意見もあろうかと思いますが、制作進行の真っ只中に忘れていた原稿締切日がやってきたので(苦笑、しかも英訳しなければならない)、そんなこんなで〜という言い訳です。さらには、実際にはどうなるんだい?という疑問をお持ちの方は、9/27(土)のコンサートにお越し下さい。iPhoneオーナーのご参加も引き続き募集中ですので、こちらもよろしくお願いします。

Snowflakes

コンピュータは死んだ。少なくともデスクトップ・スタイルやラップトップ・スタイルのコンピュータは死んだ。かつて大型コンピュータのバッチ処理によってバイナリー列を計算して音楽を作り出していた(ありがとう!Max Mathewsら先駆者の皆さま)のが今日では信じられないように、やがてデスクトップやラップトップで作曲したり、演奏する人がいたことを不思議に思うだろう。

私は1999年に「incubator」と名付けたプロジェクトを行なった。この作品では、50台の初期iMac(CRTディスプレイ!)を会場の床面にグリッド上に配置し、それぞれをEthernetを用いて接続してローカル・エイア・ネットワークを形成した。iMacの内蔵マイクロフォンを入力として用い、内蔵ディスプレイと内蔵ステレオ・スピーカーが出力として用いた。つまり、このシステムは、50個の音声入力、50個の映像出力、そして100個の音声出力を備えていることになる。もちろん、iMacはCPUを備えているので、それぞれが独立して処理を行ない、Ethernetを通じて相互に情報を遣り取りすることができる。

http://www.iamas.ac.jp/~aka/incubator/

「incubator」の主要な狙いのひとつは、ネットワーク型の音楽を、目に見えて耳で聞こえる形態として、現実の姿として提示することにあった。大半のコンピュータ音楽は、孤高の作曲家、バーチュオーゾばりの演奏者、あるいはオーケストラの指揮者などのように、音楽の中心に音楽家個人を想定した中央集権的な音楽である。そこで、「incubator」では、自律分散的な処理と観客との相互作用によって、新しい形態の音楽の可能性を探ろうとしていた。

「incubator」から、およそ10年を経過した今日、コンピュータは進化し、掌に載るようになった。それはコンピュータとは呼ばれず、iPhoneと呼ばれる携帯電話として存在している。そこで私は、iPhoneを用いて「incubator」に似たネットワーク・システム型の作品を制作している。最初の作品は「Snowflakes」と名付けられており、Fredrik Olofsson氏と安田到氏とともに、2008年9月に大垣(日本)で、2008年10月に上海(中国)で上演されることになっている。

http://akamatsu.org/snowflakes/

「incubator」と比較して「Snowflakes」は、単純にはiMacをiPhoneに置き換え、EthernetをWi-Fiに置き換えたと考えれば良い。しかし、大きな違いは、観客はiPhoneを持って自由に参加し、移動し、立ち去ることができる点だ。しかも、iPhoneは我々が用意するのではなく、観客のポケットに入っているiPhoneを使わせていただくことを想定している。つまり、「incubator」は固定されたクローズド・システムであったが、「Snowflakes」はフレキシブルなオープン・システムになっている。この世界で何が起こるだろうか?

コンピュータやネットワークの形態によって音楽が変わるのだろうか? iMacからiPhoneへの形態の変化は明瞭だが、その違いは音楽に反映されるというのが私の意見だ。PAシステムやレコーディング・システムが登場した時に、どのように音楽が変化したのかを思い出そう。iPhoneもまた途中段階に過ぎない。やがて、指輪やネックレスのようなウェアラブル・コンピュータが現れるだろうし、やがてはコンピュータはインプラントされ、身体に溶け込むだろう。そのような世界を想定して、私は作品を構想したいと思っている。もはや、古びたコンピュータを使ってはならない。

(文責:赤松正行)